熊本城 数寄屋丸
「数寄屋丸(すきやまる)」は、 主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物で、「数奇屋丸二階櫓」とも呼ばれています。
かつては西隅に五階櫓も建っていたと考えられています。

現在の建物は平成元年(1989年)に復元されたものです。
内部は展示スペースとなっており、加藤清正公の甲冑(レプリカ)などが展示されています。

 ▲ 「数寄屋丸」外観
数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)は、 西に五階櫓、東に地蔵櫓門を配し、梁間七間(約13m)、桁行十八間(約33m)の建物で、 南面の壁には銃眼や石落としもついているが、内部一階は土間、二階には書院造の座敷があり、 全国の城郭建築の中でも非常に珍しいものである。
数寄屋とは、秀吉築城大阪城の「山里丸」の流れをひくもので、 熊本城における文化的遊興の空間であったと思われる。 茶会・能・連歌の会などが催され、二階御広間もそのような用途に使われていたと考えられている。 二間半四方で十二畳半の部屋が主室となっており、床の間は二間半の押板だけというシンプルな構造で、 復元に際しては書院造の建物・城内の櫓・絵図等の資料も参考にした。
建築の際は残っていた礎石をそのまま使用し、柱等の主要材は九州山地から伐り出した栂を、梁には松、土台には栗を使用した。
[現地案内より転記]

 ▲ 「数寄屋丸」外観




 ▲ 鉄砲を打つ為の穴、「銃眼」


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 熊本城 闇(くらが)り通路
本丸御殿は2つの石垣を跨ぐ様に建っている為、地下通路を有する特異の構造になっています。 その地下通路は昼までも暗いことから、「闇(くらが)り通路」と呼ばれています。 闇り通路の入り口は「闇り御門(くらがりごもん)」と呼ばれ、その上部の屋根は唐破風(からばふ)となっています。 (現地立て札より転記)

また、闇り通路を形成する石垣の中には、築城当時からの物、明治22年の大震災の際に積み替えられた物、 そして今回の再建にあたり積み替えた物が混在しています。

 ▲ 闇がり通路
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 熊本城 大小天守閣
熊本城の天守閣は向かって左側に大天守、右側に小天守と2つの天守閣が並んでいます。
天守閣、本丸御殿一帯は明治10年(1877年)の西南戦争開戦3日前に原因不明の出火で焼失しました。 現在の天守閣は昭和35年に外観復元されたものです。
大天守:外観3層内部6階地下1階、石垣の上から高さ約30m。
小天守:外観2層内部4階地下1階、高さ約19m。
内部には加藤家、細川家、西南戦争の資料が展示されています。

天守閣へ入るとまず目に入るのが、壁に埋め尽くされた「一口城主」の「芳名板」。 熊本城では熊本城復元募金・新「一口城主制度」が導入され、一万円以上の寄付をすると「一口城主」になれます。

 ▲ 左側に大天守、右側に小天守

 ▲ 大天守閣を横から見たところ

 ▲ 天守閣に入ると「一口城主」の名前が

 ▲ かつての熊本城の模型

 ▲ 天守閣からの眺め

 ▲ 天守閣からの眺め
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 熊本城 本丸御殿
本丸御殿は加藤清正公によって創建され、行政の場、生活空間として利用されていました。 平成20年に再建が完了した本丸御殿には、大御台所、大広間(対面所)、数寄屋(茶室)などが再現されています。

【大御台所】 には、江戸期の本膳料理の模型が飾られています。 また、当時のレシピから再現された熊本郷土料理を、1人3000円で本丸御殿大御台所2階で味わうことが出来ます。(要予約)

【昭君之間(しょうくんのま)】 本丸御殿内で最も格式高い部屋。 壁、天井には金箔が張り巡らされ、中国の美女、王昭君の障子画も描かれています。 王昭君は白馬に乗って琵琶を弾いている女性です。

 ▲ 天守閣から本丸御殿を見る

 ▲ 大御台所

 ▲ 大御台所の天井

 ▲ 熊本城なんでも情報箱

 ▲ 本丸御殿大広間。この左手には縁側がある

 ▲ 手前の部屋が若松之間

 ▲ 昭君之間。白馬に乗っているのが王昭君
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last visited : 2011/01/15