御祭神(筑前筥崎宮に同じ)
誉田和気命(応神天皇)
息長足比売命(神功皇后)
高良玉垂命(武内宿祢)
由緒来歴
島津始祖忠久公が始めて山門院野田へ下向の途中筑前博多の沖で逆風に遇い、乗船まさに難波せんとする折、
筥崎宮に誠願して難を免れ無事山門院荘之浦に着船せし故をもって当社を勧請したと伝える。
初め野田極楽寺(女子好位置)に建立、その後名護浦、六月田と移り出水領主薩州家二代国久公の文明の項(五百余年前)
此の地宮内を卜(ぼく)として当社を建立したという。
六代義虎公は最も尊崇公馬く永禄六年には御宝殿も造立している。
しかし天正十五年の豊臣秀吉の征西、更に朝鮮の役には、出水領主薩州家は断絶し出水の地は没収させられて、
秀吉の殿領となり当社は、別当寺の成願寺と共に破壊された。
だが慶長四年朝鮮役の島津宗家義弘、家久父子の抜群の戦功により、出水は再び島津家久公に与えられた。
翌年、公は自ら出水に入部し僅かの間に荒廃した山河を見て、初ず当社と成願寺の復興を命じたのである。
出水郷第二地頭椛山久高は、慶長十四年琉球攻めの主将を命ぜられ、出陣に当り、当社に戦勝を祈願、
目山度任を果して佩用の鎧、太刀を奉納した。かくして当社は薩州の宗社国境鎮護の神として、
歴代藩主の尊崇厚く大祭には必ず地頭が代参をつとめたのである。
明治維新後は別当寺、成願寺も、廃寺となり神領も多くは上地となり、社殿も腐朽した。
そして明治十五年、氏子相計之義金を以て社殿を造営したが某の後明治、大正、昭和の約百年を経て再び改築の期を迎えた。
かくて昭和五十五年、氏子有志の募金により、新社殿の再興をみたのである。
[ 現地案内板より転記 ]