最初は却下された回天の構想も、戦局が悪化する状況の中で、試作・実験が開始されました。
当初は脱出装置を付ける事が条件でしたが、実装されることはありませんでした。
昭和19(1944)年9月に大津島回天基地が開設され、板倉光馬少佐、黒木博司、仁科関夫が中心となって、
本格的な訓練が開始されました。
大津島に回天基地が開設されたのは、既に酸素魚雷の試験場があったことと、
特殊兵器という機密性の保持の観点等から選ばれたそうです。
その後、大津島の基地が手狭になったため、
同じ山口県内の周防灘側の光(光基地)と平生(平生基地)にも基地が設けられ、
さらに大分県速見郡日出町大神(
大神基地)にも基地が設けられました。