桜花の碑 / 野里国民学校跡 / 野里国民学校 国旗掲揚台 
桜花の碑 / 野里国民学校跡
桜花 とは、太平洋戦争中に旧日本海軍によって開発された特攻兵器で、 1200kgの爆弾を搭載した一人乗りの飛行機型ロケットです。

桜花は乗組員ごと敵艦へ体当たりするためだけに統計されたもので、 一式陸上攻撃機という航空機の腹部に取り付けられて出撃しました。 そして敵艦の上空で特攻隊員が乗り込むと、一式陸攻から知り放され、尾部にある火薬ロケットを噴射させ、 敵艦に突入するという作戦に用いられました。
しかし、総重量が2トン以上ある桜花を積むことで速度が低下した 一式陸上攻撃機は、待ち受ける敵機の標的となったため、 多くの部隊は敵艦に到着する前に撃墜されました。

 ▲ 野里国民学校跡に建つ桜花の碑

 ▲ 朝日神社。右手に桜花の碑がある
桜花が初めて鹿屋基地から特攻出撃した昭和20年3月21日には、1日で160名もの戦死者を出しました。 これ以降も第五航空艦隊司令部(鹿屋基地に設置され、特攻作戦の総指揮を執った)の指揮のもと、 神雷部隊の出撃は続き、多くの尊い命が失われました。

人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は 野里国民学校 (国民学校;今でいう小学校) を宿舎としていました。 現在の駐車場周辺が、野里国民学校の跡地です。
「桜花の碑」が建つ場所は、出撃前に特攻隊員たちが整列し、別れの盃を交わしたところです。 そして隊員たちは崖側の台地へと続くつづら折りの坂を登り、トラックで鹿屋基地の飛行場へと向かいました。

ここに建つ「桜花の碑」は、当時報道隊員として 神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏が揮毫したものです。
<▼以下の白黒の写真は、現地案内パネルより切り出したもの▼>

 ▲ 鹿屋基地から出撃する一式陸上攻撃機。
  腹部に桜花を積んでいる。




 ▲ 戦時中の野里国民学校周辺図
野里国民学校の校舎は、戦況が厳しくなった昭和20年春頃から、 鹿屋基地を出撃する特攻隊員たちの宿舎となりました。
隊員たちは教室を寝室としていましたが、昭和20年3月の空襲により窓ガラスは吹き飛び、天井から屋根まで穴があいて空が見えるほど 校舎は荒れ果てていたといいます。
現在は学校はここから500m程の場所に移転され、校舎と校庭の間にあった 国旗掲揚台が残るのみとなっています。

出撃を待つ特攻隊員たちの生活は、 宿舎である野里国民学校から周辺の1km四方ほどが散歩区域に決められていました。 朝、隊員たちは近くの小川で顔を洗い、朝食の時間まで草むらに座って雑談するのが習慣だったそうです。 その小川は今も道路と桜花の碑の間を流れています。

特攻隊員たちと近隣住民との交流も行われたそうで、 地域の麦の収穫を手伝ったところ、住民から、当時大変貴重だった牛1頭、豚3頭、鶏卵数千個が 慰問品として届けられたというエピソードが残っています。

出撃を翌日に控えた隊員は、髪を整え髭を剃り、ドラム缶風呂に入って身綺麗にしてから眠りました。 翌朝起床すると、新品の下着に着替えてから飛行服を身につけ、白米、味噌汁で腹ごしらえをし、宿舎に別れを告げました。

 ▲ 野里国民学校

 ▲ 校舎内での様子

 ▲ 大分県宇佐市平和資料館の桜花の複製

 ▲ 校舎内での様子

 ▲ 校庭で

 ▲ 談笑するひととき
野里国民学校 国旗掲揚台
神雷部隊の宿舎となった野里国民学校の施設として、唯一残っているのが このコンクリート製の国旗掲揚台です。
戦争当時、国旗掲揚台の前は校庭となっており、隊員たちの訓練の場としても使われていました。
当時の写真に写っている掲揚台を見ると、現在は下部が土に埋もれているみたいです。
なお国旗掲揚台の上部分は、現在鹿屋航空基地史料館の敷地内に施設され館外展示されています。


 ▲ 野里国民学校の国旗掲揚台。右端に写っている
page top 
桜花の碑 / 野里国民学校跡 DATA
住所鹿児島県鹿屋市野崎町(朝日神社となり)
電話番号
開館時間終日開放
駐車場15台程度
公式HP
備考
近隣 SPOT 関連 LINK
BACK    HOME    PAGE TOP
last visited : 2017/06/17