鹿屋市には、戦時中に海軍の飛行場が3ヶ所(「鹿屋」「笠野原」「串良」)存在し、
日本で最も多くの特攻隊が出撃して、その尊い命を奪われました。
特攻基地と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、同じ鹿児島県の
知覧 だと思いますが、
知覧は陸軍の基地であり、
ここ鹿屋は海軍の基地でした。
鹿屋基地は、昭和11年に鹿屋海軍航空隊が開隊して以来、上海渡洋爆撃から終戦に至るまで、
海軍の重要基地として活動し続けました。
また、昭和16年には真珠湾攻撃の作戦を練った「鹿屋会談」が行われました。
昭和20年には第五航空艦隊司令部が鹿屋に設置され、鹿屋から各基地へ特別攻撃の命令が下されるようになりました。
鹿屋基地からは日本で最も多い908名の特別攻撃隊が出撃し、南の空へ散華されました。
(知覧からの特攻出撃は436名なので、鹿屋からの特攻はおよそ倍の数になります。)
そして、
終戦後には進駐軍が金浜海岸に上陸したことから、
歴史的に重要な地となっています。