健軍神社 
健軍神社
熊本市東区健軍に位置する「健軍神社」は、熊本市では最も古い神社で、 阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(こうさじんじゃ、甲佐町)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)と共に阿蘇四社とも称せられています。
創建は欽明天皇19年(558年)、阿蘇神社の大宮司が勧請したものとされています。
また、西南戦争で、薩軍を救援するため結成された熊本隊の挙兵の場所とされています。

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電車通りの大鳥居から神社まで続く、八丁馬場(はっちょうばば)と呼ばれる約1200mの長い参道があり、これを上りきると重厚な楼門が佇んでいます。 楼門前に立つ「二の鳥居」は横長で背が低いのが珍しいなと思います。
この八丁馬場は、軍馬の調練に使われていたもので、熊本藩初代藩主・加藤清正の頃に植えたとされる杉並木の一部が残っています。

また八丁馬場の突き当りには、「西南の役 熊本隊出陣の碑」が立っています。

 ▲ 八丁馬場と山門

 ▲ 八丁馬場


御祭神
「健軍大神(けんぐんおおかみ)(健緒組命(たけおぐみのみこと))」、「健盤龍命(たけいわたつのみこと)」、「阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)」、 「神渟名川耳命(かんぬながわみみのみこと)」、「国造速瓶玉命(くにつくりはやみかたまのみこと)」、「草部吉見神(くさべよのみのかみ)」、 「比東芬q神(ひめみこがみ)」、「彦御子神(ひこみこがみ)」、「若比盗_(わかひめのかみ)」、「新彦神(しんひこかみ)」、 「新比盗_(しんひめかみ)」、「若彦神(わかひこかみ)」、「彌比盗_(やひめかみ)」

境内地は25,179u、参道は1,230m(一の鳥居より二の鳥居まで)

由緒
欽明天皇(二十九9代)十九年勧請(かんじょう)の由来は、阿蘇神社神事祭祀執行の折々国司(藤原法昌(ふじわらのりまさ))阿蘇神社へ供え物等運送するに夏は洪水干魃、冬は、雪霜早く降りて五穀不熟を憐れみ、或る年冬十二月十三日国司阿蘇宮参詣の時此の原にて俄(にわか)の大雪道路を塞ぎて進退に迫り椎の樹下に野陣を張り遙拝(ようはい)して国司心底に阿蘇大神(あそおおかみ)を勧請し老弱者阿蘇参詣の労を救えればと念願なるに五更(ごこう)(現在の四時頃)の頃に至り三歳ぐらいの童子忽然として石上(いしのうえ)に現れ国司に向かい「汝阿蘇大神を尊信し二心(ふたごころ)なく厳寒積雪を厭(いと)はす此に来たりあまるに衆人遠路の労を憐れみ大神を此の地に勧請せんと欲ふ神明(しんめい)何そ感応せさらんや宜(よ)くこの所に 勧請すべし、然るに阿蘇宮は皇城鎮護(こうじょうちんご)の為東に向かい当社は蝦賊新羅(えぞしらぎ)鎮退の為西に向かい健軍(たけみや)と号すべし汝に託す吾則(われすなわち)阿蘇大神也(そおおかみなり)」と宜(の)り終えて去り給(たま)ふ国司驚き感じ此由(このよし)、見聞に依って、直ちに社宇(しゃう)を造建し阿蘇大神の荒霊(あらみたま)を鎮祭して健軍社と号す。(文化四年の古文書より抜粋)

〇童子出現の石は、現在楼門前に鎮座し石立大神(いわたておおかみ)と申し伝ゆ、一説に景行天皇御腰掛(けいこうてんのうみこしかけ)の石とも言う。
〇健軍神社は、承平年中肥後守保昌修宮殿(しょうへいねんじゅうひごのかみやすまさしゅうぐうでん)と言う、健軍神社は、健緒組命(たけおぐみのみこと)を鎮祭すと言う。

健緒組命(たけおぐみのみこと)は、景行天皇の御代益城郡朝来那山(ましきぐんちょうらいなさん)の賊を誅(つ)みない給いたる命(みこと)にして 御功(みさお)も有れば此の命を祀り給うことも有りしか此の命は阿蘇大神五世の孫とも云い又、阿蘇大神叔父に当たり給ふ命なりと云う、又、朝来那山は当神社より東南に当り、二里半に遠く三里に近しとある。現在は朝来山(ちょうらいさん)という。

☆健緒組命のことは、肥前風土記にもこのことが記してある。

 ▲ 楼門前にある石立大神(童子出現の石)

 ▲ 西南の役 熊本隊出陣の碑

 ▲ 西南の役 熊本隊出陣の碑

 ▲ 細工の美しい楼門

 ▲ 楼門の天井





 ▲ さざれ石



 ▲ 戦没者慰霊之碑
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健軍神社 DATA
住所熊本県熊本市東区健軍本町13-1
電話番号096-368-2633
料金無料
駐車場あり。無料
公式HP
備考
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last visited : 2017/03/26