無窮洞 

無窮洞
日本本土の最西端に位置する佐世保市は、大小の島々が複雑に織りなす多島海と、 港を取り巻く3方の小高い山々に囲まれた、美しい自然に恵まれた港町です。
そんな港町に、1889(明治22)年に鎮守府が開庁すると、近代的な軍港都市として急激に発達を遂げました。

しかし第二次世界大戦での戦局は徐々に悪化していきます。 大戦が終盤に差し掛かった1943年に、当時の宮村国民学校(現佐世保市立宮小学校)の校長の指示で、 教師と小学生たちが掘った巨大な防空壕が『無窮洞』です。


掘削は1943(昭和18)年8月から終戦の1945(昭和20)年8月15日まで続けられました。 機械も爆薬も使わず、4年生以上の児童がツルハシで堀り進み、女子生徒がノミで仕上げるという、 全て手作業で掘られた防空壕です。

一番広い主洞で、中は幅約5m、奥行き約19mという規模。 生徒600人が避難できるようにという大規模な防空壕には、 避難中でも授業や生活ができるように、教壇まで備えた教室をはじめ、トイレや炊事場、食料倉庫、 さらには天皇・皇后のお写真『御真影(ごしんえい)』を飾る為の部屋(書類室)まで設けてありました。

無窮洞入口に彫られた『無窮洞』という文字は、当時の校長が書いたものです。 主洞の上には『敢闘門(かんとうもん)』、右手に開いた副洞側の入口には『嘗胆門(しょうたんもん)』と彫られていました。
しかし敗戦後、GHQに壊される事を恐れた校長の指示によって、坑道入口に彫られた名前は全て消されてしまいました。
現在の『無窮洞』という文字は改めて彫られたものだそうです。

無窮洞では、ボランティアガイドさんが常駐しておられ、丁寧に解説をして下さいました。 ボランティアガイドさんの中には、実際に無窮洞を掘った方や、 戦後に無窮洞の中で遊んだり、映画を見たりしたという宮村小学校の生徒だった方など、 実際に無窮洞を利用しておられた方々がいらっしゃいます。



無窮洞に入坑するすぐの一番広い部屋が、主洞です。 凝灰岩をくりぬいた主洞は幅5m、奥行き19mの広さがあり、一番奥には教壇が造られています。
左手には配電盤後、水飲場や明かり棚があります。
教壇の背面のカーブなど、とても子供たちと素人が掘ったとは思えない、素晴らしい出来映えです。

床に彫り込まれた溝は、岩肌に伝わる水を排水する排水路で、この上に板張りの床があったそうです。 現在は観光客が転ばない様に砂利が敷き詰められています。

洞内には当時の写真パネルが展示されている他、 当時掘削作業に使われたツルハシなども展示されています。

主洞の一番奥から右に伸びた廊下を進むと、廊下の途中から更に奥行きがあり、「書類室」とその奥の食糧庫へと続きます。

 ▲ 教壇

 ▲ 教壇

 ▲ 主洞の床に掘られた排水路

 ▲ 主洞の水飲場と明かり棚

 ▲ 当時の写真パネル

 ▲ 当時の写真パネル
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 ▲ 主導から横に伸びた廊下

 ▲ 書類室の重要書類棚

 ▲ 書類室の御真影棚
書類室には、重要書類棚と、昭和天皇・皇后陛下の写真を掲げる「御真影棚」が設けられています。 書類室という名前ですが、主要な用途は「御真影部屋」であったと思われます。
天皇・皇后の写真は、空襲警報が鳴り防空壕に避難するときには、 宮村国民学校に飾ってあるものを教師の手で持って来て、この無窮洞に掲げたのだそうです。

この書類室から続く部屋は、食糧庫です。 この食糧庫辺りが最後に掘られた所で、荒々しくデコボコなのは、 終戦により完成せずに終わったからだそうです。
未完成の為か、他の部分よりも天井が低く、足元も悪く、湿気も多いです。
食糧庫奥にはかまどや調理流台も造られています。


 ▲ 御真影棚

 ▲ 食糧庫

 ▲ 食糧庫奥のかまどと調理流台

 ▲ 食糧庫奥のかまどと調理流台
更に食糧庫奥にある螺旋階段は、裏山の上へ続く避難道です。 避難道と通気口の役割を果たしており、下から掘り進めた部分と 山の上から掘り進めた部分が繋がったときには歓声が上がったそうです。

避難道の手前から、無窮洞の正面側に向かって伸びているのが「副洞」です。 副洞は幅3m、奥行き15mの大きさがあります。

この副洞の正面側には、便所がありましたが、現在は埋められて見学できません。
これは平成6年の佐世保市の水不足の時に、宮地区の飲料水の貯水池として使われた為に閉鎖した物で、 これがなければ無窮洞は完全な形で残っていたのにと、ボランティアガイドさんがおっしゃっていました。


 ▲ 避難道手前辺りから廊下と主洞方向を見る

 ▲ 嘗胆門
無窮洞の小さい入口「嘗胆門」には、農機具の唐箕(とうみ)が置いてあります。
空襲の時に全校生徒600人が避難したところ、酸欠状態になった為に、 唐箕を使って入口から空気を送り込んだのだそうです。
唐箕とは、風力を起して穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための農具です。 この風力を使って防空壕内に空気を送り込んだのです。

終戦直前に長崎市に原爆が投下された時には、この無窮洞にも被爆者が次々と運び込まれたそうで、 緊急の野戦病院となったそうです。 しかしながら無窮洞に運ばれた患者さんは皆亡くなられたそうです。

 ▲ 副洞を一番奥から正面に向かって写す。入口近くに便所があった
【無窮洞(むきゅうどう)】 [現地案内板より転記]

無窮洞は、戦争中に宮国民学校の先生と子ども達によって掘られた防空壕です。
岩壁に「無窮洞」と大きく彫られた下にある「工事概要」には 「本工事ハ昭和十八年八月二十九日起シ、同二十年八月十五日炊事場ヲ未完成ノママ停止セリ。 作業ハ一切外部ノ労力ヲカラズ爆薬ヲ用ヒズ、職員生徒児童ノ手ニヨリつるはし、のみ、 かなづち、くわヲ使用セリ。底面積凡七十坪四十坪ヲ板張りトシ映画場ノ設備ヲモ施セリ・・・」 と書いてあります。
「無窮」とは、「きわまりのないこと」「かぎりないこと」で、 日本と子供達の将来がいつまでも栄えることの願いを込めて書かれているのでしょう。
当時小学生だったお年寄りの話によると、小さな体で鍬やツルハシで少しずつ掘り、 先がつぶれたツルハシは学校の工事場で、鍛冶屋さん宅の児童が修理したということです。 女子もホゲなどで土運びをして手伝い、全校生六百人が入れるような広い地下壕ができました。
板張りの教室には石の教卓やローソク立があり、書類棚、倉庫、炊事場、トイレもあり、防空壕で生活できるよう準備されていたようです。
入口は川のほうに二つあり、山へ出る非常口は通風口でもありますが、山から下の方へ掘るものと、 中から上に掘るものがつながった時は大変喜んだということです。
無窮洞は子ども達の労力で完成させたとは思えないような立派なものです。
平成六年の水不足は深刻で、無窮洞は立派な文化財なので惜しむ声もありましたが貯水池に利用されました。 後に別の場所に貯水施設ができたので、平成十四年の佐世保市制百周年記念行事に、 無窮洞の復元整備工事をして一般開放することになりました。

 ▲ 掘削作業をする石像

 ▲ 無窮洞入口

 ▲ 無窮洞入口
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無窮洞 DATA
住所長崎県佐世保市城間町3-2
電話番号0956-59-2003 (無窮洞顕彰保存会)
時間9:00〜17:00(受付は〜16:30)
定休日年末年始
駐車場あり
公式HP
備考
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last visited : 2019/04/12