平和公園 
平和公園
1945年(昭和20年)8月9日に投下された原子爆弾落下中心地(爆心地)と、その北側の丘の上とを含めた地域に、 平和を祈って設けられた公園です。
公園内は大きく分けて、「願いのゾーン」「祈りのゾーン」「学びのゾーン」の3つで構成されています。

「願いのゾーン」には、平和公園のシンボルでもある「平和祈念像」や、 「平和の泉」「折鶴の塔」、「長崎の鐘」、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」などがあります。


 ▲ 平和公園のシンボル、平和祈念像
page top 
長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂
平和祈念像から近い公園入口の向かい側にあります。
原子爆弾によって亡くなられた身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない 原爆無縁死没者の遺骨を安置している祈念堂です。 氏名が判明している無縁遺骨については、1柱でも多く、1日も早く遺族のかたに引き渡すために遺族調査を行い、 遺族が判明次第遺骨をお渡しされています。
施設の形式としては、死没者が生前信仰していた宗教、あるいは来所者が信仰する宗教との整合性の面を考慮し、 誰もが抵抗なく参拝できるようにするためにも、無宗教形式となっています。

ブログ記事はコチラから

 ▲ 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂
page top 
願いのゾーン
「願いのゾーン」には、平和公園のシンボルである「平和祈念像」をはじめ、「折鶴の塔」、 「平和の泉」、「長崎の鐘」、「長崎刑務所浦上刑務支所跡」などがあります。
また、世界各国様々な国から寄贈された、平和を象徴する像が並んでいます。

『平和祈念像』 は長崎県出身の彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう)の作品で、 高さ9.7メートル、台座の高さ3.9メートル、重さ約30トンという大きな像です。 コバルトブルーの美しい像で、右手は原爆を、左手は平和を、表情は追悼の意を表しています。


ブログ記事はコチラから

 ▲ 平和祈念像(中央)と折鶴の塔(右)

 ▲ 平和祈念像

 ▲ 平和祈念像

 ▲ 平和祈念像
平和祈念像

この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない 悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならない という切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955年)8月の原爆10周年記念日に 設立されたものであります。 平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻家の権威、北村西望氏制作 による全長約10mの聖堂男神像であり、上方を刺した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は 平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」 または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っている姿であります。 なお、折り曲げた右足はめい想即ち静、立った左足は救済即ち動、何れも神仏の特性を表現したものであり 本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては、世界にもその類を見ない 雄大な芸術作品であります。

 ▲ 折鶴の塔

 ▲ 平和祈念像作者の言葉

 ▲ 長崎刑務所浦上刑務支所跡

 ▲ 公園入口にある「長崎刑務所浦上刑務支所」の銘板
長崎刑務所浦上刑務支所 (平和公園入口設置)

長崎刑務所浦上刑務支所は、爆心地より北へ最短約100m、最長約350mの地点(岡町)にあり、 爆心地にもっとも近い公共の建物であった。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾のさく裂によって刑務所内にいた職員18名、 官舎住居者35名、受刑者及び刑事被告人81名(うち中国人32名、朝鮮人13名)計134名全員が即死した。 刑務所の木造庁舎は炊事場の煙突一本を残し倒壊全焼し、また周囲をめぐらした高さ4m、厚さ0.25mの 鉄筋コンクリート塀も基礎部分を残して倒壊した。
その後、1949年(昭和24年)、特別法としての長崎国際文化都市建設法が制定されるに及び、この地は 平和公園として整備され、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う人々の聖地としてよみがえった。 長崎市はこの地で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されない ことを願って、この銘板を設置する。

 ▲ 長崎刑務所浦上刑務支所跡
長崎刑務所浦上刑務支所

長崎刑務所浦上刑務支所は、松山町・岡町・橋口町の三か町にまちがる丘の上にあり、敷地約2万平方メートル、 庁舎面積約1万3千平方メートルの爆心地にもっとも近い公共の建物であった。 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、一発の原子爆弾のさく烈により、職員、官舎居住者、受刑者及び 掲示被告人134名が死亡した。周囲の高さ4メートル、幅0.25メートルの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど 根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突1本を残して倒壊全焼した。

 ▲ 長崎刑務所浦上刑務支所跡

 ▲ 平和(ソビエト社会主義共和国連邦)と、人生の喜び(チェコスロバキア社会主義共和国寄贈)

 ▲ 長崎の鐘

 ▲ 長崎の鐘
『長崎の鐘』 の下には「原爆殉難者之碑」が祀られています。 その前に供えられた花に、お水を与えて下さいと書いてありました。
当時、被爆地には魚雷や戦車などを生産する多くの軍需工場があり、動員学徒、女性挺身隊と呼ばれた中学生や 女学生をはじめ、多くの人々が働いていました。 長崎の鐘は、33回忌にあたる1977年にここで亡くなった方々の冥福を祈るためにつくられたものです。

『平和の泉』 の正面には、「あの日のある少女の手紙」が記されています。
『のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。 どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました』

 ▲ 平和の泉

 ▲ 平和の泉

 ▲ 平和の泉。奥に平和祈念像が見える
平和の泉

昭和20年8月9日、原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら、 死んでいきました。
その痛ましい零に水を捧げて、めい福を祈り、あわせて世界恒久平和を祈念するため、 核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を 建設しました。
今日、ここを訪れてくださいましたあなたに、めい福を祈り、平和を祈念していただければ、 誠に幸いと存じます。

噴水池の直径:18メートル  噴水の高さ:0.5〜6メートル
刻々と変化する水形は、平和の羽ばたきを形どり、つるの港と言われる長崎港のつるも象徴しています。
page top 
平和公園・松山町防空壕群
平和公園の「願いのゾーン」入口に当たる、階段とエスカレーターの横には、 第二次世界大戦中の防空壕跡 『平和公園・松山町防空壕群』 があります。
長崎に原子爆弾が投下されたとき、町内にいた人は、この周辺の防空壕に避難していた数名と、 町を出て職場に勤務していた人、たまたま所用で町を離れていた人々を除いて全員が亡くなりました。

ブログ記事はコチラから

 ▲ 「願いのゾーン」入口に当たる、階段とエスカレーター

 ▲ 平和公園・松山町防空壕群(跡)。エスカレーターの工事中に見つかった壕

 ▲ 平和公園・松山町防空壕群(跡)
右写真2枚の防空壕は、平和公園エスカレーター真横にある壕で、 説明板にイラスト付きで紹介されている防空壕と思われます。
この壕はエスカレーターの工事中に発見され、一部は取り壊されましたが、 残った壕を公開しています。
イラストによると、入口は3つあり(恐らく1つの入口はエレベーター真横の物で塞がれている) 奥の方で繋がっています。
これ以外にも、右の方に別の壕が残っていました。

 ▲ 防空壕内部

 ▲ 防空壕内部

平和公園・松山町防空壕群(跡)

1941(昭和16)年12月8日、日本はアメリカなどに宣戦布告し、太平洋戦争が始まりました。
1944(昭和19)年頃から日本本土への空襲が激しくなるにつれて、国の指示で全国的に町内会(隣組)や 各家庭で防空壕がつくられるようになりました。長崎では、丘や山が多い地形を利用して、斜面に横穴を 掘り、各々を内部でつなぐなどした、防空壕もつくられました。アメリカの飛行機が近付いてくると、 空襲警報のサイレンが鳴り、人々は防空壕に避難しました。
1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分。長崎市松山町の上空約500mの地点で、アメリカのB29爆撃機から 投下されたプルトニウム型原子爆弾が炸裂しました。一瞬にして多くの人々が、ものすごい熱線、爆風、 放射線によって命を奪われ、街は焼き尽くされ、一面の廃墟となりました。
当時は浦上刑務支所があった、この平和公園の周囲の斜面には多くの家庭用や町内用の横穴式の防空壕が つくられました。一発の原子爆弾で、爆心地から半径500m以内にいた人々はほとんど即死しましたが、 これらの防空壕の中でわずかながら生き残った人もいました。しかし、被爆したほとんどの人たちは、 火傷や放射線などで重傷を負い、逃げ込んだ防空壕の中で苦しみながら、治療も受けられないまま、 次々に死んでいきました。
終戦後、爆心地から近い防空壕にまつわる被爆の状況を、アメリカ軍は調査し、防空壕の内部の形状、 その中の生存者と志望者の位置などを詳しく記録しました。そして、この調査内容は、第二次世界大戦後の 核戦争に備えての核シェルターをつくる時の参考にしたといわれています。
2009(平成21)年の国土交通省の調査によれば、戦争中に長崎には防空壕が193か所ほど存在していたと されています。
平和公園・松山町防空壕は、爆心地から約100mという非常に近い場所にあり、被爆前・被爆時・被爆後の 人々の様子を含めて、原子爆弾の威力、戦争の恐ろしさとともに、平和の大切さを伝える被爆遺構として 貴重なものです。

 ▲ 平和公園のエレベーター手前に立つ説明板
右写真の説明板の防空壕です。表面にフェンスが張ってありますので、中に入る事は出来ませんが、 ライトが付いていますので、中の様子を見る事が出来ます。

 ▲ 防空壕説明板

 ▲ 説明板の防空壕入口
平和公園・松山町防空壕群(跡)

戦時中、現在の平和公園周辺の崖には数多くの防空壕がありました。 1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾の炸裂により、町内にいた者は、 この周辺の防空壕に避難していた数名と町を出て職場に勤務していた人、たまたま所用で町を離れた人々を除き 全員が死亡しました。
爆心地から近いこれらの防空壕にまつわる被害の状況は、アメリカ軍も調査し、防空壕内部の形状、その中の生存者と 死者の位置を記録しています。この記録をご紹介します。

“事情聴取者とそれ以外の多数の人が中に入って働いていた防空壕は、高さが約20〜25フィート(約6〜7.5m) ある崖の北側に位置し、入口が推定爆心地から約200ヤード(約180m)離れたところにあった。 この防空壕には、材料が確保されているにもかかわらず入口を保護する防護壁がなかった。 事情聴取者は爆発が起こったときに入口に背中を向けて立っていた。彼女は爆風で倒され、 足の裏側と右腕の上部に火傷を負った。火傷の傷跡は褐色のしみの様相を呈していた。 これは、通常は、高温の火花を浴びた火傷でできるものである。 事情聴取者は、濃い緑色をした木綿のもんぺを履いてそれをひざ上までたくし上げ、袖なしのシャツを着ていた。 着衣で覆われていた胴体にはまったく火傷はなかった。事情聴取者は火傷以外は何も悪いところがないと述べた。 T字型をした横穴内の12フィート(約3.6m)ある腕の部分で働いていた人は、怪我も後遺症もなかった。 “X”の位置”で働いていた女性は入口を向いていたために顔、腕、胸の上部に火傷を負ったが、 回復して後遺症はまったくなかった。防空壕の外にいた人は全員が火傷で死亡した。 死体を調べたところ、着衣が完全に焼け、肉が何か所も黒焦げによって焼き尽くされており、舌が飛び出し、 眼球と歯は大きな圧力が加えられたかのように押しつぶされていた。”
page top 
祈りのゾーン
原爆落下中心地に広がる区画が「祈りのゾーン」です。 主なものとして、「原子爆弾落下中心地碑」、「原爆殉難者名奉安箱」、「浦上天主堂遺壁」、「親水護岸(被爆地層の展示)」、 「被爆50周年記念事業碑」などのモニュメントがあります。

ブログ記事はコチラから

 ▲ 聖徳寺灯籠

 ▲ 原子爆弾落下中心地碑と原爆受難者名奉安
「願いのゾーン」方面から入るとすぐに目にするのが、一対の灯籠です。
『天王山法輪院聖徳寺』 という1626年(寛永3年)に創建されたお寺の灯籠です。
聖徳寺は爆心地から南南東へ約1,500mの距離にあり、原爆によって本堂や墓石も殆どが倒壊しましたが、 この一対の灯籠だけは倒れずに残りました。
後に聖徳寺より寄贈され、1949年(昭和24年)2月にこの場所に移設されました。

『原子爆弾落下中心地碑』 は、何度か建て替えられ、 現在は黒御影の石柱です。その前に、「原爆殉難者名奉安箱」があり、原爆で亡くなられた方々の氏名(複製)を奉安してあります。

原爆落下中心地碑の奥には、原爆で倒壊した 『浦上天主堂の遺壁』 が移設されています。

 ▲ 原子爆弾落下中心地碑と原爆受難者名奉安

 ▲ 原子爆弾落下中心地碑と浦上天主堂遺壁

原爆搭載機長崎へ

長崎は深い入江に面した美しい港を中心に繁栄し、三方(東・西・北)を山に囲まれた複雑な地形と たたずまいの中に、ポルトガル船入港から原子爆弾投下に至る370有余年の歴史を刻み込んだ、九州の 最西端に位置する港湾都市であった。
太平洋戦争の末期、昭和20年8月9日早朝、西太平洋マリアナ諸島のテニアン墓地を飛び立った原子爆弾 搭載機B29「ボックスカー」号は、第1特攻目標の北九州の工業地帯小倉市上空に到達したが、小倉市 上空は天候不良のため視界がきかず、第2目標であった長崎へと方向を転じた。
長崎市上空へ侵入した「ボックスカー」号は、雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群を 発見、高度3万フィート(約9,000メートル)から投下した原子爆弾は、午前11時2分、長崎市の北部、 松山町の上空約500メートルで天を裂くような熾烈な閃光を伴って爆発した。
原子爆弾による被害状況
死 者・・・・・・・・・・・・・・73,884人
負傷者・・・・・・・・・・・・・・74,909人(当時の推定人口24万人)
罹災人員・・・・・・・・・・・・ 120,820人(半径4キロメートル以内の全焼、全壊の世帯員数)
罹災戸数・・・・・・・・・・・・・18,409戸(半径4キロメートル以内の全戸数、市内総戸数の約36%)
全 焼・・・・・・・・・・・・・・11,574戸(半径4キロメートル以内 市内の約1/3にあたる)
全 壊・・・・・・・・・・・・・・ 1,326戸(半径1キロメートル以内を全壊とみなしたもの)
半 壊・・・・・・・・・・・・・・ 5,509戸(半径4キロメートル以内を半壊とみなしたもの)
焼失土地面積・・・・・・・・・・・・6.7平方キロメートル

 ▲ 写真は原爆投下後、最初に立てられた原爆落下中心地の標柱
原爆落下中心地

ここは原子爆弾が投下された中心地です。 この説明板の右側にある黒御影の石柱はその中心地を示しています。
1945年8月9日午前11時2分、爆撃機B29により投下された原子爆弾は、この地上500m上空でさく裂、爆風と 熱線と放射線によって市街地は廃墟と化しました。
そのため長崎市の北部一帯は全焼し、約15万人の死傷者を出しました。「75年草木の生じることなし」と いわれたこの地も、今や平和公園として訪れる人々に世界の恒久平和を訴える発信地となっています。 (長崎原爆資料館に当時の惨状を示す原爆被災資料を展示しています。)
この写真は1945年10月に撮影されたもので、原爆投下後、最初にこの地に立てられた原爆落下中心地を示す 標柱です。 その後、何度か建て替えられ、現在は黒御影の石柱になっています。

 ▲ 浦上天主堂遺壁

 ▲ 浦上天主堂遺壁

 ▲ 浦上天主堂遺壁

 ▲ 浦上天主堂遺壁

 ▲ 浦上天主堂遺壁

 ▲ 浦上天主堂遺壁の銘板より
浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)

爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895(明治28)年から建築に着手し、信徒たちの 献金と労働奉仕により、1914(大正3)年に献堂式を挙げるにいたりました。1925(大正14)年に正面の双塔が 完成し、大小の鐘がつるされました。 東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により 破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。 この側壁は聖堂の南側の一部で、1958(昭和33)年に新しい天主堂建設のためこの地に移設されたものです。 壁上の石像は、フランシスコ・ザビエルと使徒です。しかし、雨風にさらされて劣化が進行したことから、 安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行いました。 長崎市は、原爆で亡くなられた方々を追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを 願って、この銘板を設置します。
平和公園の横を流れる「下の川」は、親水護岸として整備されています。

現在は市民の癒しの場所にもなっている「下の川」ですが、 原子爆弾が投下された1945年(昭和20年)8月9日は、おびただしい死体で埋まっていました。
その惨状を目撃した被爆者の言葉が銘板に書き記してありました。
『下の川の、なかばくずれた松山橋を渡る時−ああ、その下には川の水も流れることができないほど 人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを思わせる、 この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れ渡った青空というのに、地上波なんという悲惨な光景だ』

現在の護岸には、被爆当時の石が用いられています。1984年〜1985年にかけての河川改修の際に、 原爆の熱線を残した被災資料として残した物だそうです。
また、親水護岸の横には、『被爆当時の地層』 を保存・展示している場所があります。


 ▲ 親水護岸として整備されている下の川

下の川(爆心地付近)の惨状

この下の川が流れる松山町(向かい側)は、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、 人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯 1,860人余の一般市民が生活していた。 松山町の上空約500メートルで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の球となり、 それにより生じた数百万度の熱線と放射線と巨大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し焼き尽くし汚染した。
町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
壊滅した松山町は想像に絶する焦熱地獄と化し、惨禍の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、 まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨禍が地球上に繰り返されないことを願って この地に碑を設置するものである。

 ▲ ここから被爆当時の地層が見える

 ▲ 被爆当時の地層

被爆当時の地層

昭和20年8月9日午前11時2分、米軍機B29(ボックス・カー)から投下されたプルトニウム原子爆弾(ファットマン) がこの地の上空約500mで炸裂、約15万人の死傷者を出しました。 原爆落下中心地にあたるこの地層には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けた ガラスなどが現在でも大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す被爆資料として、現地に保存・展示 するものであります。
『被爆50周年記念事業碑』 は、長崎市出身の彫刻家・富永直樹氏による母子像で、 子供の姿はあの日の日本の姿を、母の姿は日本を支える世界の国々の姿を表しています。
母に抱かれた子供の手足はだらりと下がり、 原爆で死んでしまった我が子を抱いて途方に暮れる母の姿に見えました。

 ▲ 被爆50周年記念事業碑

page top 
学びのゾーン
平和公園の「学びのゾーン」では、 『長崎原爆資料館』『国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館』 を中心とした平和学習と追悼のエリアです。


 ▲

 ▲ 平和を祈る子

 ▲

 ▲ 長崎原爆資料館周辺

page top 
平和公園 DATA
住所長崎県長崎市松山町
電話番号
駐車場周辺に有料駐車場あり
公式HP
備考
関連 LINK

BACK    HOME    PAGE TOP
last visited : 2019/04/14