祈りのゾーン
原爆落下中心地に広がる区画が「祈りのゾーン」です。
主なものとして、「原子爆弾落下中心地碑」、「原爆殉難者名奉安箱」、「浦上天主堂遺壁」、「親水護岸(被爆地層の展示)」、
「被爆50周年記念事業碑」などのモニュメントがあります。
|
▲ 聖徳寺灯籠
|
|
▲ 原子爆弾落下中心地碑と原爆受難者名奉安
|
「願いのゾーン」方面から入るとすぐに目にするのが、一対の灯籠です。
『天王山法輪院聖徳寺』 という1626年(寛永3年)に創建されたお寺の灯籠です。
聖徳寺は爆心地から南南東へ約1,500mの距離にあり、原爆によって本堂や墓石も殆どが倒壊しましたが、
この一対の灯籠だけは倒れずに残りました。
後に聖徳寺より寄贈され、1949年(昭和24年)2月にこの場所に移設されました。
『原子爆弾落下中心地碑』 は、何度か建て替えられ、
現在は黒御影の石柱です。その前に、「原爆殉難者名奉安箱」があり、原爆で亡くなられた方々の氏名(複製)を奉安してあります。
原爆落下中心地碑の奥には、原爆で倒壊した 『浦上天主堂の遺壁』 が移設されています。
|
|
▲ 原子爆弾落下中心地碑と原爆受難者名奉安
|
▲ 原子爆弾落下中心地碑と浦上天主堂遺壁
|
|
|
原爆搭載機長崎へ
長崎は深い入江に面した美しい港を中心に繁栄し、三方(東・西・北)を山に囲まれた複雑な地形と
たたずまいの中に、ポルトガル船入港から原子爆弾投下に至る370有余年の歴史を刻み込んだ、九州の
最西端に位置する港湾都市であった。
太平洋戦争の末期、昭和20年8月9日早朝、西太平洋マリアナ諸島のテニアン墓地を飛び立った原子爆弾
搭載機B29「ボックスカー」号は、第1特攻目標の北九州の工業地帯小倉市上空に到達したが、小倉市
上空は天候不良のため視界がきかず、第2目標であった長崎へと方向を転じた。
長崎市上空へ侵入した「ボックスカー」号は、雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所の巨大な工場群を
発見、高度3万フィート(約9,000メートル)から投下した原子爆弾は、午前11時2分、長崎市の北部、
松山町の上空約500メートルで天を裂くような熾烈な閃光を伴って爆発した。
|
原子爆弾による被害状況
死 者・・・・・・・・・・・・・・73,884人
負傷者・・・・・・・・・・・・・・74,909人(当時の推定人口24万人)
罹災人員・・・・・・・・・・・・ 120,820人(半径4キロメートル以内の全焼、全壊の世帯員数)
罹災戸数・・・・・・・・・・・・・18,409戸(半径4キロメートル以内の全戸数、市内総戸数の約36%)
全 焼・・・・・・・・・・・・・・11,574戸(半径4キロメートル以内 市内の約1/3にあたる)
全 壊・・・・・・・・・・・・・・ 1,326戸(半径1キロメートル以内を全壊とみなしたもの)
半 壊・・・・・・・・・・・・・・ 5,509戸(半径4キロメートル以内を半壊とみなしたもの)
焼失土地面積・・・・・・・・・・・・6.7平方キロメートル
|
|
▲ 写真は原爆投下後、最初に立てられた原爆落下中心地の標柱
|
原爆落下中心地
ここは原子爆弾が投下された中心地です。
この説明板の右側にある黒御影の石柱はその中心地を示しています。
1945年8月9日午前11時2分、爆撃機B29により投下された原子爆弾は、この地上500m上空でさく裂、爆風と
熱線と放射線によって市街地は廃墟と化しました。
そのため長崎市の北部一帯は全焼し、約15万人の死傷者を出しました。「75年草木の生じることなし」と
いわれたこの地も、今や平和公園として訪れる人々に世界の恒久平和を訴える発信地となっています。
(長崎原爆資料館に当時の惨状を示す原爆被災資料を展示しています。)
この写真は1945年10月に撮影されたもので、原爆投下後、最初にこの地に立てられた原爆落下中心地を示す
標柱です。
その後、何度か建て替えられ、現在は黒御影の石柱になっています。
|
|
▲ 浦上天主堂遺壁
|
▲ 浦上天主堂遺壁
|
▲ 浦上天主堂遺壁
|
|
▲ 浦上天主堂遺壁
|
▲ 浦上天主堂遺壁
|
|
▲ 浦上天主堂遺壁の銘板より
|
浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)
爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895(明治28)年から建築に着手し、信徒たちの
献金と労働奉仕により、1914(大正3)年に献堂式を挙げるにいたりました。1925(大正14)年に正面の双塔が
完成し、大小の鐘がつるされました。
東洋一の壮大さを誇った天主堂でしたが、1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により
破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。
この側壁は聖堂の南側の一部で、1958(昭和33)年に新しい天主堂建設のためこの地に移設されたものです。
壁上の石像は、フランシスコ・ザビエルと使徒です。しかし、雨風にさらされて劣化が進行したことから、
安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行いました。
長崎市は、原爆で亡くなられた方々を追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを
願って、この銘板を設置します。
|
|
平和公園の横を流れる「下の川」は、親水護岸として整備されています。
現在は市民の癒しの場所にもなっている「下の川」ですが、
原子爆弾が投下された1945年(昭和20年)8月9日は、おびただしい死体で埋まっていました。
その惨状を目撃した被爆者の言葉が銘板に書き記してありました。
『下の川の、なかばくずれた松山橋を渡る時−ああ、その下には川の水も流れることができないほど
人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを思わせる、
この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れ渡った青空というのに、地上波なんという悲惨な光景だ』
現在の護岸には、被爆当時の石が用いられています。1984年〜1985年にかけての河川改修の際に、
原爆の熱線を残した被災資料として残した物だそうです。
また、親水護岸の横には、『被爆当時の地層』
を保存・展示している場所があります。
|
▲ 親水護岸として整備されている下の川
|
|
|
下の川(爆心地付近)の惨状
この下の川が流れる松山町(向かい側)は、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、
人類史上2番目の原子爆弾が炸裂した中心地である。
当時この町には、約300世帯 1,860人余の一般市民が生活していた。
松山町の上空約500メートルで爆発した一個の原子爆弾は、その直後巨大な火の球となり、
それにより生じた数百万度の熱線と放射線と巨大な爆圧は、あらゆるものを一瞬にして破壊し焼き尽くし汚染した。
町内にいた者は、偶然にも防空壕に避難していた9歳の少女を除き全員が即死した。
壊滅した松山町は想像に絶する焦熱地獄と化し、惨禍の跡は黒こげの死体が累々と荒廃した焦土に横たわり、
まさに地獄の終えんを思わせるものであった。
また、下の川上流の家屋解体作業に派遣されていた県立長崎工業学校の先生及び生徒も、ほとんど爆死した。
この地で被爆死された方々のご冥福をお祈りし、二度と再びこの惨禍が地球上に繰り返されないことを願って
この地に碑を設置するものである。
|
|
▲ ここから被爆当時の地層が見える
|
▲ 被爆当時の地層
|
|
|
被爆当時の地層
昭和20年8月9日午前11時2分、米軍機B29(ボックス・カー)から投下されたプルトニウム原子爆弾(ファットマン)
がこの地の上空約500mで炸裂、約15万人の死傷者を出しました。
原爆落下中心地にあたるこの地層には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けた
ガラスなどが現在でも大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す被爆資料として、現地に保存・展示
するものであります。
|
|
『被爆50周年記念事業碑』 は、長崎市出身の彫刻家・富永直樹氏による母子像で、
子供の姿はあの日の日本の姿を、母の姿は日本を支える世界の国々の姿を表しています。
母に抱かれた子供の手足はだらりと下がり、
原爆で死んでしまった我が子を抱いて途方に暮れる母の姿に見えました。
|
▲ 被爆50周年記念事業碑
|
|
|