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1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、松山町上空約500mで原子爆弾が炸裂しました。
爆心地から西に約500mの丘の上にあった鉄筋コンクリート3階建の城山国民学校は、強烈な熱線や衝撃波、爆風を受け、
大きく破壊され、その後の火災で2、3階は全焼しました。
当時在籍していた児童約1,500人の内約1,400人が、校区内の家庭などで亡くなったとみられています。
また、学校にいた教職員の内28人、三菱兵器製作所職員や動員学徒等約120人の内100人余りが亡くなりました。
新校舎建設に伴い、被爆した校舎の大部分は1984(昭和59)年までに取り壊されましたが、慰霊会、同窓会、育友会の保存活動によって、
その一部である階段棟が残されました。児童の発案と慰霊会等の働きかけにより1999(平成11)年2月から公開され、
今も被爆の惨状を伝え続けています。
この校舎を含む長崎原爆遺跡は、2016(平成28)年10月3日、国の史跡に指定されました。
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