阿多田交流館 

 ▲ 阿多田交流館外観と、人間魚雷回天のレプリカ
阿多田交流館
平生町は山口県東南部の町で、美しい自然環境と豊かな農・海産物に恵まれ、 古くから瀬戸内海上交通の重要な一拠点として繁栄していました。
しかし、昭和16(1941)年に勃発した太平洋戦争の翌年、旧海軍の軍事基地となり、造成工事が始まりました。 昭和19年には、大竹潜水学校・柳井分校が開校し、訓練が始まります。 その翌年には、水中特別攻撃隊の特殊潜航艇(蛟竜(コリュウ)・海竜)と人間魚雷(回天)の訓練基地へと大きく変容しました。

人間魚雷「回天」は、第二次世界大戦末期に窮地に立たされた日本の戦局を逆転させようと、 大日本帝国海軍で考案された特攻兵器です。 爆薬を搭載した魚雷に人間が乗り込んで、敵艦に体当たりするという、十死零生の兵器でした。 「回天」の名には、「天を回(めぐ)らし、戦いを好転させる」という意味が込められていました。

回天の訓練基地は、昭和19(1944)年9月に山口県の 大津島 に最初に設置され、 その後、同じ山口県内の周防灘側の光(光基地)と平生(平生基地)に、 さらに大分県速見郡日出町大神(大神基地)に設けられました。

ここ平生回天基地では、昭和20年3月1日回天基地平生突撃隊が開隊し、同4月17日より平生湾で訓練が開始されました。 出撃や激しい訓練、自決により、9人の若い隊員の尊い命が失われました。

 ▲ 人間魚雷「回天」の実物大複製。映画「出口のない海」の撮影で使用されたものです

 ▲ 回天一型断面図
阿多田交流館は、解体された旧平生基地の一角に、平成16年11月6日に開館しました。 館内には水中特攻隊の資料、若き隊員達の遺品や遺墨など、約400点を展示しています。 ワンフロアと狭い資料館ですが、訓練時のノートや家族に宛てた手紙など、 貴重な遺品・資料を展示しています。





【平生基地の略年表】
1914年 (大正 3年)第一次世界大戦が始まる
1941年 (昭和16年)太平洋戦争が始まる
1944年 (昭和19年)4月1日大竹潜水学校平生分校開校
1945年 (昭和20年)3月水中特別攻撃隊、特殊潜航艇蛟龍・海龍、人間魚雷「回天」の訓練基地となる
7月18日人間魚雷「回天」六基(多聞隊)を搭載した伊号五八潜水艦が出撃
8月6日広島に原子爆弾投下
8月9日長崎に原子爆弾投下
8月15日終戦
8月16日人間魚雷「回天」二基(神州隊)を搭載した伊号一五九潜水艦が出撃するが命により帰投する
8月21日呉鎮守府司令長官より特攻隊の解散命令が出る
8月31日米軍に施設、兵器、軍需品などを引渡す

 ▲ 千人針
page top 
柳井・周防大島のお宿 回天関連書籍
大観荘
じゃらん
【周防大島温泉ホテル 大観荘】日本三大潮流のひとつ、大畠の瀬戸の渦潮。波間には、白い帆を立てた釣り船が。潮風かおる、瀬戸内海の美しい景色とともに皆さまをお迎えいたします。
柳井クルーズホテル
じゃらん
開放感のあるロビーに広々としたお部屋!ゆったりとした空間でゆっくりと流れる時間に身を任せ、やすらぎのひと時をお愉しみください♪  【全室wi-fi利用可】【駐車場無料】ビジネスや観光の拠点にどうぞ★
伯母からの遺産
【伯母からの遺産 元回天平生基地司令澤村成二夫妻の思い出の記と日記】
特攻回天戦
【特攻回天戦 回天特攻隊隊長の回想】潜水学校付の同期7名、うち6名特攻戦死。ただひとり生き残った海軍士官が「人間魚雷」の構想から用兵・実戦まで、戦局の一挙逆転を計った「回天」戦の全容を初めて明かす海底戦記の決定版。93式酸素魚雷に手を加えた、人が乗って操縦し敵艦に体当たりする戦略的奇襲兵器“目のある魚雷”とともに生き死んだ“海のサムライ”群像。
回天の群像
海に散った17歳から27歳の特攻隊員は、何に命を捧げたのか。回天創案者や搭乗員たちの手紙や遺書、元搭乗員と遺族の証言から、彼らの真の思いを探る。
阿多田交流館 DATA
住所山口県熊毛郡平生町大字佐賀3900-14
電話番号0820-56-1100
開館時間9:00〜16:00
入館料無料
駐車場あり。無料
休館日月曜日、年末年始(12月28日〜翌年の1月3日)
公式HPhttp://www.town.hirao.lg.jp/kanko/kanko/1457325436179.html
備考
近隣 SPOT 関連 LINK
BACK    HOME    PAGE TOP
last visited : 2017/05/09