平生町は山口県東南部の町で、美しい自然環境と豊かな農・海産物に恵まれ、
古くから瀬戸内海上交通の重要な一拠点として繁栄していました。
しかし、昭和16(1941)年に勃発した太平洋戦争の翌年、旧海軍の軍事基地となり、造成工事が始まりました。
昭和19年には、大竹潜水学校・柳井分校が開校し、訓練が始まります。
その翌年には、水中特別攻撃隊の特殊潜航艇(蛟竜(コリュウ)・海竜)と人間魚雷(回天)の訓練基地へと大きく変容しました。
人間魚雷「回天」は、第二次世界大戦末期に窮地に立たされた日本の戦局を逆転させようと、
大日本帝国海軍で考案された特攻兵器です。
爆薬を搭載した魚雷に人間が乗り込んで、敵艦に体当たりするという、十死零生の兵器でした。
「回天」の名には、「天を回(めぐ)らし、戦いを好転させる」という意味が込められていました。
回天の訓練基地は、昭和19(1944)年9月に山口県の
大津島 に最初に設置され、
その後、同じ山口県内の周防灘側の光(光基地)と平生(平生基地)に、
さらに大分県速見郡日出町大神(
大神基地)に設けられました。
ここ平生回天基地では、昭和20年3月1日回天基地平生突撃隊が開隊し、同4月17日より平生湾で訓練が開始されました。
出撃や激しい訓練、自決により、9人の若い隊員の尊い命が失われました。