石見銀山 
石見銀山
石見銀山(いわみぎんざん)は島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山です。 明治期以降は枯渇した銀に代わり、銅などが採鉱されました。

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。

石見銀山の見どころは、大きく分けて、銀山の坑道を散策する「銀山地区」と、 武家・町屋などの古い町並みを散策する「町並み地区」に分かれています。 「銀山地区」と「町並み地区」の中間辺りに観光案内所と駐車場があり、 そこを拠点として観光します。

 ▲ 観光案内所。ここで自転車を借りたり出来る
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銀山地区を散策
観光案内所で坑道を見学したいと伝えると、 一般公開されている坑道は「龍源寺間歩」 のみで、徒歩で片道30分(パンフレットには45分と)かかるという事で、 また緩やかな上り坂になっているので、電動自転車が良いと勧められました。
そこでパンフレットを頂き、現在地からのルートを説明して下さりながら、 まず龍源寺間歩をゆっくり見てから、帰り道にここを見たら良いよ、とマーカーを引いて下さいました。

もう一つ見学可能な坑道「大久保間歩」は、3月〜11月の週末限定で予約制です。

龍源寺間歩
石見銀山で唯一、常時一般公開されている坑道がこの「龍源寺間歩」です。

石見銀山には大小600余りの間歩が点在していますが、 特に 「永久」「大久保」「新切」「新横相」「龍源寺」の間歩を称して5ヵ山と呼ばれていました。


 ▲ 龍源寺間歩の案内所
坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は156mまでです。 そこから平成元年に新しく掘った116mの連絡通路(栃畑谷新坑)が設けられ、観光用に公開されました。

間歩の壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、また20余りのひ押し掘り(鉱脈に沿って掘り進んだ横穴) や垂直に100m掘られた竪坑を見ることができます。


 ▲ 龍源寺間歩 入口

 ▲ 龍源寺間歩内部
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栃畑谷・昆布山谷
龍源寺間歩の出口辺りは「栃畑谷(とちはただに)」と呼ばれます。 栃畑谷と昆布山谷(こぶやまだに)の真ん中辺りの少し高い場所に、 鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る「佐比売山(さひめやま)神社」があります。
どの谷も銀山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が 見つかっています。

栃畑谷の発掘調査ではじめて製錬遺構が発見されたのが、右の写真の辺りです。 16世紀中ごろの遺構のほかにも江戸時代の文献に「三尺」とある灰吹炉や 明治時代の藤田組に関連する建物跡も見つかっています。

 ▲ 佐比売山(さひめやま)神社
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福神山間歩
この間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」のものですが、 一時期、代官川崎市之進(1767-78)のころには、代官所直営の「御直山」 の坑道になったこともありました。
「御直山」は天保15年(1844)には23か所まで増えますが、 「自分山」は、享保14年(1730)に55か所もあったものが、 天保15年には9か所となってしまいます。
石見銀山には、主な鉱脈が32本あったと伝えられており、 そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。

この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、 下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って 銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に 掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に向かって坑口が開いている 珍しい間歩です。
[現地案内板より転記]

 ▲ 左側の間歩が福神山間歩、他に2つの間歩が見える
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新切間歩
江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいました。 石見銀山の間歩は、元禄4年(1691)に92か所でしたが、文政6年(1823) の古文書によると新旧合わせて279か所とされ、最近の現地調査では、空気抜きなどを合わせると、 500か所を超える坑道を確認しています。
この新切間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、  正徳5年(1715)、代官鈴木八右衛門のときに開発し、  最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。  
江戸時代後期には、坑口から520mまで堀り進んでいましたが、その後休山となりました。  銀山の間歩のなかでは、最も大森の町に近く、標高も低い場所にあったものです。  
現在、中に入ることはできませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。
[現地案内板より転記]

 ▲ 銀山川と新切間歩
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清水谷製錬所跡
江戸幕府による支配が終わり、明治時代前半頃の石見銀山では、 極一部の既存の坑道を採掘するといった地元住民による小規模な鉱山経営が行われていましたが、 本格的な銀山の再開発は、明治19年(1886)に山口県萩市出身の藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう) が起業した大阪の藤田組(現在のDOWAホールディングス株式会社)による採掘権の取得に始まります。

藤田組は、仙ノ山(せんのやま)南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、 明治27年(1894)に武田恭作氏(東京帝国大学冶金学科卒)の設計による近代的な製錬所の建設を開始しました。 当時20万円(現在の数十億円に相当)の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。

 ▲ 清水谷製錬所跡

古写真や現地の状況からは、福石鉱床で採掘した鉱石が、既存の坑道を拡張した本谷の金生坑から清水谷の 蔵之丞坑まで800m運ばれた後、トロッコ道を経て選鉱場で選鉱され、 さらに製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況を窺うことができます。  
 しかし、鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算となり、  この施設は明治29年(1896)10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。
[現地案内板より転記]
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豊榮神社(とよさかじんじゃ)
毛利元就が祭神の、毛利家ゆかりの社です。
元就は生前、自分の木造を作り山吹城に安置させましたが、元就の孫の毛利輝元が 洞春山長安寺(どうしゅんざんちょうあんじ)を建立し、木造を移しました。

関ヶ原の役後、石見銀山を徳川氏が支配する中で長安寺が荒廃したため、 元禄4年(1691)、毛利家は木造を萩の本藩へ引き上げました。
大森住民から木造残置の希望があり、毛利家は代わりに新しい木造を造らせ安置しました。

時代が下り慶応2年(1866)、大森へ入った長州軍は、藩祖の木造があるのを知り、浄財を募って 本殿を始めとした境内地を整備しました。 中隊司令祖式信頼ら172名の隊士名が境内の献納物に刻まれています。
その後明治3年、明治天皇の宣下により長安寺は豊榮神社とされました。
[現地案内板より転記]

 ▲ 豊榮神社
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羅漢寺 / 五百羅漢
高野山真言宗の寺院で、山号は石室山です。 石見銀山の中心部である銀山公園や駐車場近くにあります。
五百羅漢は岩盤斜面に3つの石窟があり、その中に安置されています。

五百羅漢の始まりは 18世紀中頃、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために、 25年かかって明和3年(1766)に完成しました。
代官や代官所役人、領内の人々の援助、協力により石橋などを築き、 羅漢像は温泉津町福光の石工・坪内平七とその子と一門によって彫られたものです。

 ▲ 五百羅漢の安置された石窟


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石見銀山 DATA
住所島根県大田市大森町イ1597-3
電話番号0854-89-0183
公式HP
備考
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last visited : 2017/04/12