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“あららぎ駐車場”側から高千穂峡へ下ります。
この入口付近からは、3つのアーチ橋が眺められます。
昭和時代の「神橋」、昭和時代の「高千穂大橋」(鋼橋)、平成時代の「神都高千穂大橋」(コンクリート橋)
と三代の橋が架かっており、これを「高千穂三段橋」と呼んでいます。
一つの渓谷に3つのアーチ橋が架かるのは全国でも初めてであったそうです。
【鬼の岩屋と八峰九谷(はちみねくたに)】
この地は「あららぎの里」と呼ばれ、太古の昔、鬼八(きはち)という荒ぶる神が住みつき、
さまざまの悪事をなしたため、これを神武天皇の兄、三毛入野命(みけいりのみこと)(十社大明神)
が退治されて平和な里がよみがえったとつすえられています。
[現地案内板より]
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▲ 神都高千穂大橋
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▲ 上:神橋の欄干、下:2つのアーチ橋
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▲ 高千穂三段橋と呼ばれる3つのアーチ橋が見える
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あららぎ駐車場側から遊歩道を下ってくると、溶岩で出来たのであろう広い岩場があり、その中に石碑が立っています。
この石碑より少し進んだ当たり、遊歩道沿いに「神硯の岩」と名付けられた岩があります。
残念ながら写真では分かりませんが、硯の様に四角く窪んでいます。
またこの辺りは川幅が狭く、沢山の甌穴もあります。
遊歩道を進むと、眼鏡橋の様な形をした石橋があり、この橋を「槍飛橋」、
この橋の架かる辺りを槍飛と言います。
【神硯(みすずり)の岩】
寛政の三奇人の一人に数えられた高山彦九朗が1792年7月17日に高千穂を訪れ、
その紀行文「筑紫日誌」に
「新橋を渡りて右に十間余なる岩硯の如くなる有り。
何共名あらず予硯石を名付けて可也といひし」とあり、
当時の高千穂神社、神主田尻隠岐守は彦九朗と別れの時次の詠をおくりました。
『みすずりの岩とやいわれむ神代より 伝へしことの杤ぬ也けり』
[現地案内板より]
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【甌穴(Pot hole)】
岩盤からなる河床に出来る円筒形の深い穴をかめ穴、
又はポットホールといいます。
河床の岩盤のくぼみや割れ目の所に渦巻きを生じ、そのエネルギーによって穴が出来、
さらにその穴に入った小石が渦巻きによって岩盤を削るためこうした深い
円筒形の穴が出来ます。
[現地案内板より]
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【槍飛】
ここは五ヶ瀬川のなかで最も川幅の狭い所です。
天正19年(1591年)県(あがた)の領主(今の延岡)高橋元種に高千穂が攻められたとき、
三田井城が落ちた際、城を抜け出した家来たちがここまで逃げたが、橋が無いので
槍の柄を手前の岸についたものは飛び渡り、向こう岸についたものは川の中に転落したと伝えられており、
ここを槍飛びと言うようになりました。
[現地案内板より]
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▲ 神橋から神硯(みすずり)の岩を見下す
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▲ 甌穴
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▲ 槍飛橋
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▲ 槍飛
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▲ 写真左の断崖が「仙人の屏風岩」。河原の大きな石が「鬼八の力石」
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槍飛橋を過ぎると、左写真の様に広々とした場所に出ます。
遊歩道から五ヶ瀬川を見ると、その背後に巨大な断崖がそびえ立っています。
この断崖は柱状節理で出来ており、「仙人の屏風岩」と呼ばれています。
50m〜100mの断崖で、その姿は圧巻です。
また、無数の岩でできた河原の中に、ひときわ大きな岩があり、注連縄が締められています。
これが「鬼八の力石」です。
【鬼八(きはち)の力石(重量約200トン)】
高千穂神社の祭神(さいじん)三毛入野命(みけぬのみこと)は
弟の神武天皇(じんむてんのう)とともに大和に行かれますが、
伝説では再びお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、
この地を治めたといわれています。
この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれています。
[現地案内板より]
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▲ 鬼八の力石から、上流(あららぎ駐車場の方向)を振り返る
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▲ 左の断崖が仙人の屏風岩。この辺りまで貸しボートで遊覧できる
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