鹿屋基地周辺の戦争遺跡 
小塚公園 (旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔)
鹿屋航空基地史料館 からほど近い小塚公園には、 旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔が建っています。
現在では近隣の小・中・高生から家族連れなどの遊び場、憩いの場になっている様で、 公園内は賑わっていました。
公園内の丘に建つ慰霊塔には、 生花が供えられていましたので、どなたかがきちんと管理をされているのかなと思いました。 そして慰霊塔の前で遊んで(語らって?)いた高校生くらいの子が、慰霊塔にお参りをしているのに驚きました。 ここ鹿屋では戦後70年が過ぎても、戦争を知らない世代に受け継がれているのかなと思いました。


特攻隊戦没者慰霊塔建立の由来

第二次世界大戦における沖縄の戦闘は、戦史にも類例のないほど熾烈なものであった。 とにき戦局は、ようやく我軍に不利となり、ここに退勢挽回の秘策を試みるに至った。 すなわち敵国海空軍兵力の全滅を期して企てた“特攻攻撃”である。 ときまさに昭和20年春であった。
そして、この壮烈なる特攻攻撃発進の地こそ、当鹿屋であって、以来82日間の戦闘は苛烈を極め、 日々若人達は黒潮おどる沖縄へと飛び立った。
あたら青春に富む尊い生命を、祖国のために敢然と捧げたこれら若人達・・・ 世上ともすれば敗戦のかげにこのような尊い犠牲を忘れがちである。
こんにち、ことの結果はどうであったにしても、これら身を挺して祖国の難に殉じた人々の祖国愛は称賛される べきであり、これら若人の至情至純の精神は、その御霊とともにとこしえに祭られ史実とともに後世に誤りなく 伝えられなければならない。
その最もゆかりの深い地として、また本土最南端海軍航空基地として、多くの特攻隊員(908名)が飛び立って 再び帰ることがなかった最後の地この「鹿屋」に、その御霊を祭る慰霊塔を建立すべく、昭和32年10月 鹿屋市長を会長とする「旧鹿屋航空基地特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会」が結成され、全国に協力を呼びかけたところ、 市内はもとより、ひろく各方面から多くの浄財が寄せられた。
これに基づき、航空隊を眼前に眺望する小塚丘に、その神霊をとこしえに平和の礎として祭る慰霊の碑を、 昭和33年3月20日建立したものである。
鹿屋市


【現地案内板より転記】
【 住所 】鹿児島県鹿屋市今坂町12560(西原台小学校近く)
【 駐車場 】あり。5〜6台
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桜花の碑 / 野里国民学校跡 / 野里国民学校 国旗掲揚台
桜花とは、太平洋戦争中に旧日本海軍によって開発された特攻兵器で、 1200kgの爆弾を搭載した一人乗りの飛行機型ロケットです。

戦争末期、人間爆弾・桜花作戦を行った神雷部隊は野里国民学校を宿舎としていました。 この「桜花の碑」は、特別攻撃隊員たちが別れの盃を交わした地に建てられました。 当時報道班員として神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏が揮毫したものです。


詳しくはコチラ

 ▲ 野里国民学校跡に建つ桜花の碑

 ▲ 野里国民学校 国旗掲揚台

 ▲ 鹿屋基地から出撃する一式陸上攻撃機。
  腹部に桜花を積んでいる。


 ▲ 大分県宇佐市平和資料館の桜花の複製
【 住所 】鹿児島県鹿屋市野里町(朝日神社となり)
【 駐車場 】あり。15台程度。
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田崎掩体壕
鹿屋基地の南側に、軍事用の資材を入れていたと思われる掩体壕が残っています。
付近は農道と田畑が広がる田園地帯で、 駐車場及び車を停める場所はありません。

 ▲ 田崎掩体壕
【 住所 】鹿児島県鹿屋市田崎町
【 駐車場 】なし
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