【白坊主と呼ばれた聖師】
〜この地から、日本のキリスト教史が始まった〜
「博学にして礼儀ある人」と島津家菩提寺福昌(ふくしょう)寺の老僧であった忍室(にんしつ)という和尚は、
宣教師フランシスコ・ザビエルの学識と人柄をたたえました。
二人の親しい交わりは「白坊主(ざびえる)と黒坊主(忍室)の語らい」として記録されています。
1549年(天文18)8月15日イスパニアのザビエルは日本人ヤジロー(鹿児島県出身)の案内で、鹿児島に上陸し
日本へのキリスト教布教の第一歩をしるしました。
島津家15代貴久は伊集院の一宇治城(いちうじじょう)でザビエルと対面し、領内布教を許可しました。
ところがその後、仏教徒の激しい反対にあったり、期待した貿易船がやって来なかったことで貴久は布教に冷たくなります。
鹿児島を去ったザビエルは平戸から山口、堺、京都まで足をのばし、日本のキリスト教伝道の道を開き、
豊後(今の大分県)の沖之浜からマラッカ(今のマレーシア南西部)にむけて帰航の途につきました。
そして、ついに1552年中国で亡くなりました。
日本滞在中にザビエルは初代インド管区長に任命されています。
なお、この石造りの建造物は、明治年間に建てられ戦災で焼失した記念堂の一部です。
戦後の1949年ザビエル渡来400年を記念して、ローマ法王の寄付金をもとに教会が建設され、
同時にザビエルの胸像も建てられました。
[ 現地案内板より転記 ]