知覧特攻平和会館
太平洋戦争末期、東南アジア諸国に近い鹿児島には旧日本軍の基地が数多く設けられました。
いよいよ戦局が厳しくなると、米軍の沖縄上陸に伴い、窮地に追い込まれた旧日本軍は、特攻作戦を開始します。
人類史上類のない作戦で、
爆弾や爆薬等を搭載した軍用機等で、機体もろとも敵艦に体当たり攻撃をするという作戦でした。
日本本土の中で沖縄に最も近い鹿児島の基地からは、次々と特攻隊員たちが飛び立つ様になりました。
知覧飛行場からは、昭和20年4月1日の初出撃から6月11日まで特攻を行い、
436名もの若い命が南の空に散華しました。
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▲ 知覧特攻平和会館。会館前の木は戦闘機を模しているのか?
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▲ 知覧特攻平和会館 ロビー
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知覧は、昭和16(1941)年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校、少年飛行兵、学徒出陣の
特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていました。
しかし戦況が緊迫し、遂に昭和20(1945)年に本土最南端の陸軍特攻基地となり、
20歳前後の若い隊員たちが満州・日本各地からここに集結して、家族・国の将来を思いながら出撃したのです。
陸軍沖縄戦 で特攻戦死された1036名の隊員は、知覧基地を主軸として万世・都城基地から、
第8飛行師は台湾各基地、義烈空挺隊は健軍(熊本)基地から出撃しています。
特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は「振武隊(しんぶたい)」、
台湾から出撃した部隊は「誠飛行隊(まことひこうたい)」と呼称しています。
(※特攻戦死された人数は資料によって変動があります。)
(※またこの人数は陸軍の特攻隊の人数であり、同じ鹿児島県の鹿屋基地は海軍の基地で、
特攻戦死された方は知覧を上回ります。)
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館内はロビーと零戦展示室のみ撮影可能です。
ロビーから入館すると右回りに、昭和20年4月1日の初出撃から6月11日までに特攻出撃して散華された方々の
遺影が並んでおり、遺書や手紙、遺品が所狭しと並んでいます。
この時代に大多数の方のお写真が残っている事に驚きました。
写真のない方は写真と見間違う様な肖像画が掛けられています。
遺書や手紙は展示棚だけでなく、その下の引き出し式の展示ケースにもぎっしり収められており、
とてもじゃないですが全てを見る事なんてできない量です。
展示されている遺影、遺品のほとんどは、元特攻隊員であった初代館長の板津忠正さんがが集めたものです。
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▲ 零戦展示室
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▲ 零戦展示室
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館内には、陸軍一式戦闘機「隼」の複製、
陸軍四式戦闘機「疾風」の実物、
海から引き上げた半壊状態の海軍零式艦上戦闘機「零戦」といった大型展示物もあります。
そして、地元知覧町出身の語り部の方たちが、特攻の歴史的背景や特攻隊員の遺書・手紙等を
語って下さいます。
私が訪れた時は、実際に知覧特攻基地で働いていた方がお話をされていて、
実体験としてのお話が心に響きました。
また、実際に多くの特攻隊員たちと交流し見送った鳥濱トメさんの談話や、
生き残った特攻隊員たちのお話、
当時勤労女子学生「なでしこ隊」であった方のお話などのビデオを見ることができます。
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館内の受付の横には、レシーバー貸出所があります。
タブレットの音声ガイドを200円で貸出していて、館内の展示物に音声ガイドの番号が表示されています。
番号順に音声ガイドを聞きながら閲覧すると、より分かり易いですし、
展示物を漏れなく一通り網羅できまるのでお勧めです。
知覧特攻平和会館周辺には、今でも戦争に関する史跡が幾つか残っています。
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▲ 特攻勇士の像「とこしえに」と航空自衛隊の初等練習機
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▲ ロビーにて
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▲ 知覧特攻平和会館の入口にある平和の鐘
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【写真左】
館内の遺影には出身地も表示されているのですが、朝鮮の方も11名おられました。
その11名のみ霊を慰める為に、会館の玄関前通路にはアリランの歌碑も建てられています。
【写真右】
富屋食堂を営む鳥濱トメさんは、特攻隊員たちから母と慕われていました。
【写真下】
再現された三角兵舎(特攻隊員の宿舎)が記念館の横に建てられています。
実際に三角兵舎が立っていたのは、この場所ではなく、飛行場から少し離れた松林の中でした。
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▲ 朝鮮半島出身の特攻勇士11名の為のアリランの歌碑
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▲ 特攻隊員たちに母と慕われた鳥濱トメさんの顕彰碑
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▲ 再現された三角兵舎
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▲ ここで出撃前に酒を汲みかわし遺書をしたためた
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